つがる☆時空間  

青森県の観光情報や歴史民俗を中心に紹介しています。江戸時代の天守がある弘前城・岩木山、八甲田山などの四季や、こぎん刺し・津軽塗の伝統工芸をゆっくりとごらんください。

こんにちはnatuです。青森県在住の主婦ライターです。
『グラフ青森』社が発刊している「青森の暮らし」にてコラム『城下町通信』を執筆しています。弘前城や神社仏閣、あるいはこぎん刺し、『BOR0』といった古布を手掛かりに東北の魂にふれる旅をしましょう。

きのうの記事のつづきです。
BORОの記事

田中忠三郎先生は、何も初めから『BORO』を蒐集したのではありませんでした。


   田中先生


若いころは縄文遺跡を発掘して、考古学を志していたのです。
            田中忠三郎先生と襤褸

少年時代から、故郷の下北半島で
矢じりや土器のかけらに興味を示しましたし、
家には父親が出稼ぎをしたときに
エトロフ島から持ち帰った石鏃が茶箪笥の引き出しに仕舞ってありました。

青森県内は、いたる所に縄文遺跡があるといっても
過言ではないでしょう。
そして、3000年前まで日本において文明が
もっとも発達していた地域でした。

広葉樹の森が豊かに広がり、
狩りのための動物が生息し、クリやドングリなどの木の実が多かったため、
縄文時代は東北に人口が集中していました。

それは『東北学』という本に書いてあります。

私を含めた東北の人は、
縄文遺跡の上に町や市を形成し、
ショッピングタウンやスポーツ施設を建てて、暮らしています。
東北自動車を青森まで通したとき、遺跡がずいぶん見つかりましたが、
いちいち遺跡として保護していたら工事が完成しないので、取り潰したほど。

田中忠三郎先生の生家は、海産物の加工場を経営していました。
陸奥湾で獲れたホタテやナマコを煮上げて、
方々の市場や商店に卸していたのです。

若い頃は、実家の加工場で働いて、
その仕事は、釜炊き。

早朝から火を入れて、巨大な鉄なべに湯を沸かす。
そして、小船に積んで、青森市まで陸奥湾を横断し、運ぶ。
そういう作業に明け暮れていたそうです。

七人兄弟の三男です。
父が40代で亡くなり、
兄夫婦が事業を継ぎ、若き日の忠三郎先生は
兄の手足に過ぎません。

行けと命じられれば、時化た海へも荒波をかぶりながら漕ぎ出すような日々。

工場で働いていた古参の女性が、
「無事に帰ってくるんだよ。
あんたの父親が生きていたら、どうしてこんなに波が高い日に、
海になんか追いやるもんか。命を大切に、な。帰ってこれるよう、祈ってるから」と涙ぐみました。

一度しかない人生、海の藻屑と消えるわけにはいきません。
どうせいつかは死んでしまうのなら――

念願の遺跡発掘に命を懸けてみたい。

兄と大喧嘩の末に、家を出ました。
身ひとつで行けという兄の言いつけに従い、
布団や家具などは持ち出せず、本当にわずかな着替えだけを持って。

そうして下北を発つと、青森市のとなり・平内(ひらない)町を目指します。
陸奥湾に面した平内町は、アイヌ語のピラナイが語源で、意味は丘と川だとか。
丘陵地にほとんど発掘が進んでいない縄文晩期の槻木(つきのき)遺跡がありました。

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ただし、そこは個人の畑です。春から晩秋まで作物が植えられます。
それでも願い出ると、冬季間なら掘ってもいいと許しが出ました。
冬になると、一メートル以上の積雪がありますが、仕方がありません。

幸いなのは、耕運機などがまだ一般的でなかったため、鍬と鋤でしか耕す農具がなかったことです。
昭和20年代、馬と人力が頼みなので、地中深くに眠っている土器や土偶はそっくり残っていたのです。
しかし、時間との闘いです。
機械化の波が追いかけるようにやってきました。

シャベルで雪をのけ、凍った土を掘る。ただひたすらにたった一人で。
日が暮れ、身体は凍え、命の危険を感じるほどになったら、そこに目印の棒を立て、深夜に狭いアパートに帰る暮らし。

最初にお目にかかったとき、田中忠三郎先生はそんな話をしてくれました。
取材だったのです。
地方紙のコラムを担当していた私は、
仙台の荒蝦夷社から
『下北 忘れえぬ人々』が発刊されたので、ぜひ会ってみたいと思ったのです。
少しも偉ぶらない、ユニークな方というのが第一印象です。
よく取材にきてくれたねと、歓迎してくれました。

療養していたことは聞いていましたが、そのときは病名までは知りませんでした。
喉頭癌。
まさか、そんな重病だったとは。



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